東郷平八郎

東郷平八郎(軍人)の名言

東郷平八郎(1848–1934)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本海軍の元帥であり、日露戦争の日本海海戦で連合艦隊を率いて歴史的勝利を収めた人物です。薩摩藩出身で、薩英戦争や戊辰戦争を経て海軍に進み、イギリス留学で国際法や海軍戦術を学びました。1905年、日本海海戦では「東郷ターン」と呼ばれる戦術でロシアのバルチック艦隊を撃破し、日本を列強の仲間入りへと導きました。誠実・沈着・至誠を重んじる精神は「勝って兜の緒を締めよ」などの名言に表れ、国内外から「東洋のネルソン」と称されました。

海から来る敵は海にて防ぐべし。

東郷平八郎さんが薩英戦争での初陣を経て得た戦略的信念を表す言葉です。海軍の本質を突いたこの言葉は、敵が海から侵攻するならば、陸に上がる前に海上で迎え撃つべきだという合理的かつ先制的な防衛思想を示しています。単なる戦術ではなく、国防の哲学としても語り継がれています。

咲くもよし散るもよし野の山桜、花のこころは知る人ぞ知る。

この句は、東郷平八郎さんが小笠原長生さんに贈った和歌であり、自然と人の生き方を重ねた深い哲学を含んでいます。「咲くもよし散るもよし」は、桜が咲く時の華やかさも、散る時の潔さも、どちらも美しいという自然観を示しています。そして「花のこころは知る人ぞ知る」は、桜の本質的な美しさや潔さは、深く理解する者にしかわからないという含意です。これは、人の生き方にも通じ、名利に囚われず、天命に従い、静かに本分を全うすることの尊さを語っています。咲くべき時に咲き、散るべき時に散る。その潔さこそが真の美であり、達者の境地なのです。

天祐や神助が、必ずあるものと信じている。ただ、それは、正義あっての天祐、至誠あっての神助だ。

この言葉は、東郷平八郎さんが信仰と行動の関係を語った名言です。「天祐(てんゆう)」とは天の助け、「神助(しんじょ)」は神の加護を意味しますが、彼はそれらがただの運や祈りによって得られるものではないと断言しています。天の助けは「正義」があってこそ、神の加護は「至誠(しせい)」。つまり誠実で真心ある行動があってこそ得られるというのです。これは、勝利や成功は偶然ではなく、道義と誠実さに根ざした行動の結果として訪れるという信念を示しています。東郷の戦略や指導の根底には、この精神が貫かれており、単なる軍人ではなく哲人としての一面が垣間見える言葉です。

皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ。

1905年の日本海海戦において、東郷平八郎さんが連合艦隊に発した訓示です。この言葉は、国家の命運がこの一戦にかかっているという強い覚悟を示し、全員に最大限の努力を求めるものです。旗艦「三笠」に掲げられたZ旗は、この訓示の象徴であり、兵士たちの士気を鼓舞しました。単なる命令ではなく、国の未来を背負う者としての責任と誇りを共有する呼びかけであり、東郷さんのリーダーシップと精神性が凝縮された歴史的な言葉です。

遇直と笑わるるとも、終局の勝利は必ず誠実な者に帰すべし。

東郷平八郎さんが晩年に残したとされる言葉であり、誠実さの価値を力強く語っています。「遇直(ぐちょく)」とは、融通が利かず真っ直ぐすぎる性格を指し、時に世間から嘲笑されることもあります。しかし東郷さんは、そうした不器用であっても誠実な人間こそが、最終的には勝利を手にすると説いています。これは戦場だけでなく、人生や仕事にも通じる教訓であり、短期的な要領や策略よりも、長期的な信頼と真心が本質的な成果をもたらすという信念を表しています。

軍備に制限は加えられても、訓練には制限はありますまい。

東郷平八郎さんが軍事力の本質を語った言葉です。兵器や予算などの物理的な軍備は、国際条約や政治的事情によって制限されることがあります。しかし、兵士の精神力・技術・規律といった「訓練」は、いかなる制約下でも自らの意志と努力によって高めることができるという信念が込められています。これは単なる軍事論ではなく、どんな環境でも自己研鑽を怠らず、内面の力を磨くことの重要性を説いた普遍的な教訓です。現代にも通じる、人間の成長と準備の本質を突いた言葉です。

兵器に格差があるときには、百発百中の大砲一門だけで、百門をもっているが一発しか当たらない大砲群と互角に戦うことができる。

東郷平八郎さんが兵器の「量」よりも「質」と「精度」の重要性を説いた名言です。百門の大砲があっても命中率が低ければ意味は薄く、逆に百発百中の一門があれば、戦局を左右する力を持つという考えです。これは単なる兵器論に留まらず、訓練や技術の鍛錬、そして人材の精鋭化の重要性を語っています。平時の努力が戦時の成果を生むという教訓でもあり、現代においても「効率的な力の使い方」や「本質を磨くこと」の価値を示す言葉として響きます。

神明は、ただ平素の鍛錬に力め、戦わずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くる。

東郷平八郎さんが「連合艦隊解散の辞」で述べた一節であり、勝利の本質を語る名言です。「神明は、ただ平素の鍛錬に力め」とは、日々の鍛錬に励む者こそが、神の加護を受けるに値するという意味です。つまり、戦う前からすでに勝てるだけの準備と実力を備えている者にこそ、勝利の栄冠は授けられるという信念が込められています。これは偶然や運ではなく、誠実な努力と不断の修練こそが真の勝利を導くという教訓であり、武人としての覚悟と哲学が凝縮された言葉です。

古人曰く、勝て兜の緒を締めよ、と。

戦に勝利した後こそ油断せず、さらに気を引き締めよという戒めの言葉です。「兜の緒」とは、兜を頭に固定する紐のことで、戦が終わった後に外すのが常でしたが、勝利に浮かれて油断すれば、思わぬ反撃を受ける可能性があるという教訓が込められています。由来は戦国武将・北条氏綱の遺訓とされ、後に東郷平八郎さんが引用し広く知られるようになりました。成功の瞬間こそ慎重さが求められるという、時代を超えて通用する人生哲学です。

努力に憾(うら)みなかりしか。不精にわたるなかりしか。言行に恥ずるなかりしか。至誠にもとるなかりしか。

この言葉は旧日本海軍の教育理念として知られる「海軍五省」の一部であり、日々の自己反省を促す問いかけです。「努力に憾みなかりしか」は、目的達成に向けて十分な努力を尽くしたかを問います。「不精にわたるなかりしか」は、怠惰や面倒を避ける姿勢がなかったかを省みるもの。「言行に恥ずるなかりしか」は、言葉と行動が一致し、恥じる点がなかったかを問います。そして「至誠にもとるなかりしか」は、誠実さや真心に背くことがなかったかを自問するものです。これらは単なる軍人訓ではなく、現代にも通じる自己修養の指針として深い意味を持ちます2。

東郷は、運の良い男でございます。しかるに、必ずや勝利致しましょう。

東郷平八郎さんが日本海海戦の直前に語ったとされる言葉であり、謙虚さと覚悟が同居した名言です。「運の良い男」とは、自らの過去の経験や状況を冷静に振り返った上での自己認識であり、単なる幸運ではなく、準備・誠実・信念が運を呼び込むという含意があります。そして「必ずや勝利致しましょう」と続けることで、運に頼るのではなく、勝利への確信と責任を強く示しています。これは、指揮官としての精神的支柱であり、部下の士気を高める言葉でもありました。運と実力のバランスを見極めた、東郷らしい深みのある一言です。

降伏するのであれば、その艦は停止せねばならない。しかるに、敵はいまだ前進している。

東郷平八郎さんが戦闘中の判断を語った一節であり、降伏の本質と戦術的な冷静さを示しています。「降伏するのであれば、その艦は停止せねばならない」とは、敵が降伏の意思を示すならば、行動を止めてそれを明確に示すべきだという原則です。しかし「しかるに、敵はいまだ前進している」と続けることで、敵の行動が降伏とは矛盾していると判断し、戦闘継続の正当性を主張しています。これは、戦場における誤解や偽装を防ぐための厳格な姿勢であり、東郷さんの冷静な観察力と指揮官としての責任感が表れた言葉です。戦争における倫理と実務の境界を鋭く突いた一言でもあります。

我らが、真に一念、お国の為に、今度の一戦は、勝たねならないと、必死になって準備しておいたので、天祐もあり、神助もあり、何も彼も、好都合に運んだわけである。

この言葉は、東郷平八郎さんが日本海海戦の勝利を振り返って語った一節であり、勝利の背景にある精神と準備の重要性を示しています。「真に一念」とは、心を一つにして国家のために戦う覚悟を意味し、「勝たねならない」とは、使命感と責任の重さを表しています。彼はその覚悟のもと、必死に準備を重ねた結果として、天の助け(天祐)や神の加護(神助)を得て、すべてが好都合に運んだと語っています。つまり、勝利は偶然ではなく、誠実な努力と信念に基づく必然であるという哲学が込められています。

天は正義に与し、神は至誠に感ず。

東郷平八郎さんが信念として掲げた言葉であり、勝利や加護は偶然ではなく、正義と誠実さに根ざした行動によって得られるという哲学を示しています。「天」は自然や運命の象徴、「神」は精神的な支えや信仰の対象と捉えられますが、それらはただ祈るだけでは動かず、正しい道を歩み、真心を尽くす者にこそ応えるという意味が込められています。この言葉は、戦場だけでなく人生全般に通じる教訓であり、誠実な努力こそが運を呼び込み、結果を導くという東郷さんの生き方を象徴しています。

武人の一生は戦いの連続。

東郷平八郎さんが連合艦隊解散の辞で述べた言葉であり、軍人としての覚悟と生き方を端的に表しています。ここでいう「戦い」は、戦場での戦闘だけでなく、平時における訓練・修養・備えも含まれています。つまり、武人は常に己を磨き、国家のために備え続ける存在であり、平和な時であっても責務が軽くなることはないという意味です。事が起これば力を発揮し、事がなければ力を養う。その姿勢こそが武人の本分であり、東郷さんはそれを生涯貫いたのです。

だったら海軍が良い。陸軍は死ぬからな。入るのなら海軍だ。

軍学校の生徒から「どの軍に入れば死なずに済みますか?」と問われた際、東郷平八郎さんが返したとされる言葉です。一見すると軽妙な冗談のようですが、実際には戦場の現実を知る者としての率直な洞察が込められています。陸軍は地上戦での白兵戦や長期の消耗戦が多く、死傷率が高い傾向にある一方、海軍は艦隊戦が中心であり、戦闘の様式が異なるため、相対的に生存率が高いとされた時代背景があります。東郷さんの言葉には、軍人としての経験と、若者への思いやりが滲んでおり、ユーモアの中に現実を見据えた知恵が宿っています。

可哀想に倅(せがれ)二人まで戦死させて、乃木は全くいい男じゃった。

この言葉は、東郷平八郎さんが陸軍大将・乃木希典さんに対して述べたとされる一節であり、深い敬意と哀悼の念が込められています。乃木さんは日露戦争の激戦地・旅順攻囲戦において、二人の息子を戦死で失いながらも、任務を全うしました。東郷さんはその犠牲の大きさに「可哀想に」と同情しつつも、「全くいい男じゃった」と称賛することで、乃木さんの忠誠心・武士道精神・人格の高さを讃えています。この言葉には、戦友としての深い絆と、命を賭して国に尽くす者への尊敬が滲んでおり、戦争の悲哀と人間の気高さが同時に表現されています。

気力に欠くるなかりしか。

旧海軍兵学校で生まれた自己反省の教訓「海軍五省」の一節であり、「今日一日、物事に取り組む精神力や意志の強さが十分であったか」を問いかける言葉です。ここでいう「気力」とは、単なる体力ではなく、困難に立ち向かう勇気・集中力・粘り強さなど、内面的な力を指します。東郷平八郎さんの精神にも通じるこの問いは、日々の行動を振り返り、怠惰や妥協がなかったかを省みるためのもの。戦場だけでなく、日常の仕事や創作活動にも通じる、自己鍛錬の核となる言葉です。

不精にわたるなかりしか。

旧海軍兵学校で生まれた「海軍五省」の一節であり、日々の自己反省を促す問いのひとつです。ここでの「不精」とは、怠けること、面倒がること、やるべきことを後回しにする姿勢を指します。この言葉は「今日一日、怠惰に流されることなく、最後まで誠実に取り組んだか?」という自問を促します。東郷平八郎さんの精神にも通じるこの問いは、軍人だけでなく、現代の私たちにも通じる自己修養の指針です。日々の行動を省みることで、誠実さと責任感を育み、次の一歩へとつなげる力となります。

言行に恥ずるなかりしか。

旧海軍兵学校で生まれた「海軍五省」の一節であり、日々の自己反省を促す問いのひとつです。この言葉は「今日一日の言葉と行動に、恥じるべき点はなかったか?」という自問を促します。つまり、発言と行動が一致していたか、軽率な言葉や無責任な振る舞いをしていなかったかを省みるための指針です。東郷平八郎さんの精神にも通じるこの問いは、誠実さと品格を重んじる姿勢を育むものであり、軍人だけでなく、現代の社会生活や創作活動においても重要な自己修養の基盤となります。

至誠にもとるなかりしか。

旧海軍兵学校で生まれた「海軍五省」の第一条であり、「真心に背くことはなかったか?」という自己反省の問いです。「至誠」とは、偽りのない誠実な心、つまり魂の奥底から湧き出る真の誠意を意味します。この言葉は、行動や言葉だけでなく、内面の動機や姿勢までを省みる深い問いかけであり、東洋思想に根ざした人間の在り方を示しています。日々の生活や仕事、創作においても、自分の言動が誠実であったかを振り返ることで、信頼と品格を育む指針となります。

一勝に満足して治平に安ずる者より直ぐに之を奪う。

東郷平八郎さんが連合艦隊解散の辞で述べた警句であり、勝利後の油断を戒める言葉です。ここでの「一勝」とは一度の勝利、「治平に安ずる」とは平和に満足し、備えを怠ることを指します。東郷さんは、勝利に酔いしれ慢心すれば、神明はその栄光をすぐに奪うと警告しています。これは、戦後こそ気を引き締め、不断の鍛錬と備えを続けるべきだという軍人としての哲学であり、現代にも通じる「成功の後こそ真価が問われる」という教訓です。


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